2013/06/05
仏教の四字熟語「一即一切」気の持ちようで世界が変わる
仏教の四字熟語をご紹介します。 一切即一ともいいますが、どういう状況かといいますと、一塵のなかに全宇宙がすっぽり収まっているという状況のことを指します。 例えば、スカイツリーの一千億や二千億、どれだけでも入るのです。ナノ世界(1ナノメートル = 0.000 000 001メートル=十億分の一 : 一塵)に一千億でも二千億でも銀河が入っちゃうのですから。 これ華厳経の教えです。 いま、くしゃみされたかた、一瞬にして無数の地球型惑星が滅んだかもしれません。そして同時に、無数の地球型惑星を誕生させたかもしれません。宇宙はこうして生成と消滅を繰り返している。 などと、いったら天文学者だけでなく、だれからも笑われてしまうでしょう。でも私は、SF世界を思わせるこの四字熟語の壮大な世界観がとっても気に入っています。宇宙の果てと自分がどこかで繋がっているかもしれない。そんなファンタジーに溢れているからです。
出典: http://www.igosso.net/flk/2659207603.html
こたえは仏教的ゼロなのです。これを「空性」ともいいます。 それは、なんにもないという意味ではありません。「空性」とは「空」の性質をもつということです。どんな存在でも、単独では存在できない。目の前にコーヒーがあるためには、カップやテーブルやコーヒー豆や、そのほかたくさんの条件が必要です。だから、コーヒーは単独で存在するものではなく、お湯や豆やカップなどの条件の集まりです。そしてお湯や豆も熱や、水や大地という条件で成立し、これがだんだんとひろがって宇宙へと繋がっているのです。そして宇宙も無数の条件によって存在します。つまり、一杯のコーヒーも、宇宙を存在させている条件のひとつです。あるのは条件の集まりだけで、宇宙自体はどこにもない。 そして空性である、つまり空っぽであるという性質は宇宙もコーヒーも等価ですから、一即一切の関係が成り立つのです。空っぽなものに、空っぽなものをどれだけ詰め込んでも空のままじゃないですか。じゃあ、この躰も、世界も結局は空虚だと言うのでしょうか。 いいえ。もちろんそんなことありません。世界はたしかに空っぽな性質を持つのですが、そこにはさまざまな絵が描かれます。宇宙が空っぽな性質をもつからこそ、こころはたくさんの条件(絵具)を集めて、大宇宙というキャンバスに、いろいろな世界を描き出している。そのように華厳経は考えるのです。 つまり、一即一切って、この世界はぼくたちのこころ次第で、なんにでもなる、天国にでも地獄にでもなるというメッセージだったのでした。
睡魔太郎
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